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春まだ遠く―優美香

春まだ遠く

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 季節を惜しむように大雪が関東に降っていた。僕と母は冷え冷えとした病院の診察室の中で、女医の話を聞いている。
 女医は言い辛そうに眼鏡を直し、母の目を真っ直ぐに見た。
「木村さん、悪性でした。しかも、あちこち転移しています」
 丸椅子に座らせていた母の背中が倒れてきたように思えて、手のひらを差し出して支える。
 母も覚悟はしていたのだろう。それでも打ち消したかったに違いない。なんとか座り直し、一拍置いた母はノドの奥から絞り出したような声を上げた。
「も、もうだめなんですか」
 これほどまでに悲しそうな母の声は聞きたくなかった。
 この現実も受け入れたくはない。受け入れてたまるか。僕は涙をぽろぽろこぼしながら、母の背をさすりつつ女医に尋ねた。
「手術をしても、だめなんですか。これ以上、まだ本人に痛みが続くんですか」
 目線を落とした女医の唇がゆがむ。口ごもった彼女は、悲しそうな顔を上げた。
「もっと早く来てくれていたら……」
「そんなこと……」
 母の声に女医は俯く。
「終末医療の施設がある病院に、しょ……紹介状を書きますから……」
 それ以上聞かないでくれと言わんばかりの声に、僕らは悟るしかなかった。

 にこやかな笑顔の外来受付の女性は、清算を済ませた僕に領収書と紹介状の入っているらしい封筒を渡してくれた。そして、ごく当たり前のように声を掛けた。
「お大事に」
 どこにでもあるねぎらいや励ましの言葉なのに、心を引き裂くような一言に変わる時もあるんだなと思う。それは誰も責められない。大きなため息をついた後で母へと振り向き、言った。
「なにか食べて帰ろうよ」
「いいよ。どうせ残すことになるしね」
 彼女の顔が妙にすがすがしく見えた。つい、身内の甘えで不用意な言葉を口にする。それもかなり大きな声で。
「どうして、そんなにスッキリした顔してるんだよ。あんなこと言われたばかりなのに」
 外来フロアの静かなさざめきや視線が、こちらに急に集まってきたような気がした。狭くはないフロアに僕の声が響き渡っていたせいかもしれない。
 母は視線をそらし、玄関の向こう側を見つめた。音もなく降り積もる雪がまぶしい。わざと横を向いている彼女から、優しい声が聞こえる。
「優一じゃなくて、よかったのよ。きっと」
 他人が大勢いる前なのに膝が崩れそうになる。この人は一体いつまで「僕の母」であろうとするのかと。
 僕は天井を見上げた。でないとまた不用意に涙がこぼれそうになる。子供が親を送るのは当然だが、こんな別れって有りなのか。当の彼女は胸のつかえが降りたような顔をしている。
 病院の玄関扉を開けて外に出た。二人とも黙りこくったまま、並んで歩く。僕は、どんな言葉がこんな時にふさわしいのか知らない。
 母が沈黙を破る。
「早目にその紹介状を持って、先生が言ってくれたとこに行かなくちゃね」
「ああ、そうだね」
 なるべくぶっきらぼうに言い、封筒の中の書類を出してみる。とにかく気を紛らわしたかった。明日にでも、彼女を「終の棲家」へと送り届ければならない。場所を確かめておいても損はない。頭の中では色々な考えがめまぐるしく回っていた。
 紹介状に書いてある医療施設の住所は、ここから電車で二時間半もかかる場所にある。車を出した方が早いだろうか、と考えた時だ。
「お蕎麦が食べたいよ、優一」
 甘えるような、それでいて乾いた声に我に返った。
「わかった。食べてから、入院生活で必要なものを考えようか」
「うん」
 今、歩いている先にバス停がある。バス通りの角には、父が生きていた頃に家族で通っていた蕎麦屋があった。おそらくは、そこに行きたいのだろうと見当をつける。
「あそこでいいの?」
 尋ねてみたら、母は少女のような笑い顔を浮かべた。彼女の表情に、道路の脇に真っ白く積もった雪が反射して見える。僕は思わず立ち止まった。
「どうしたの?」
「い、いや。母さんって、笑ったらそんなに綺麗だったんだって思ってさ」
 母はころころと鈴を転がすように笑う。僕は奥歯を噛みしめた。もうすぐ、その声が聴けなくなってしまうと思ったら負けだ。彼女に対して、今までに言えなかった言葉を聞かせてやろうと思った。鬱陶しさも、親しみも、全部。

 蕎麦屋の店内には初めのうち、僕たち以外は客はいなかった。
 母と黙って天麩羅蕎麦を啜っている時、女性の二人連れが静かに引き戸を開けた。彼女たちが奥のテーブルに座ってから、鴨南蛮を注文した声が聞こえてきた。
 やがて彼女たちが会話を交わす声が、ひっそりとこちらに流れてくる。
「ビール、飲みたくならない?」
「お姉ちゃんったら、もう……」
 お姉ちゃん、と呼ばれた女性がくすくす笑う。
「いいじゃない。もう最後なんだから」
 母の目線が、ふっとそちらに動く。それにつられて、ついつい振り向いてしまった。
 こちらから見える、ニットの帽子をかぶった色白で目の大きい女性が「お姉ちゃん」らしい。あの人も母と同じ病気なのかもしれないと思った直後に、妹らしき人がカウンターの中に声を掛ける。
「すみません。瓶ビール追加で」
「コップ二つ?」
「そう」
 こちらからは、妹の背中しか見えない。つやつやした長い髪を、後ろで一つに束ねていた。
 母は向き直った僕に小声で言う。
「あの人たち、見たことある?」
「ううん」
「もしかしたら、同じところに行く人かもしれない。なんとなくだけど」
「まあ、そうかな。一緒のとこだったらいいよね、もしかしたら話が合うかもしれないしさ」
「うん」
 その夜。手洗いに廊下に出た時、襖越しに母の泣いている声を聴いた。

 大きなカバンを持った母が、顔をほころばせながら車の屋根に積もった雪を払っている。
「見てよ優一。すごいね、よく降ったねえ」
 昨日の未明まで降っていた雪のせいで、周り一面がまぶしい。
「手が冷えるよ、もう車に乗ったら」
「うん、もう少し」
「先に座っとくよ?」
「いいよ」
 本当は一挙一動に文句を付けたくない。でも万が一、風邪を引くことで寿命が短くなってしまったら大変だ。正直言って内心では、はらはらしていた。終末医療施設に風邪を引いた人を入所させるのは、いくらなんでも気が引ける。
 ひとしきり雪を素手で触った母は、満足しきった様子で助手席の扉を開けて座った。
「ごめんね、ようやく気が済んだよ」
「風邪引くだろ」
 僕の顔を見て、母の表情が変わる。
「ごめん」
 俯いた彼女の手の甲に、涙が落ちた。
「最期まで、迷惑ばかりかけてごめんね」
 鼻の頭が熱くなったのをごまかしながらエンジンを掛けた。
「いいよ。行こうか」
 施設までの道中は、さほど混んでもいない。案外と早く到着しそうだと思っていたら、本当に四十分ほどで到着してしまった。信号も多い通りなのに珍しいこともあるものだ。
 目の前の正門を抜けたら、母の「棲家」になる施設がある。
「早く着いちゃったね」
 ドアを開けずにいた母は僕の目を見て、にこにこ笑った。あと何度、母のこんな顔を眺めることが出来るだろう。不意に笑うなよ、頼むよ……。
「午後二時だったっけ? 受付が開くのって」
「そうだね」
「あんた、お腹空いてない?」
 昨日までとまるで変わらない口調で、彼女は尋ねてくる。
「軽く食べとこうか? 優一の好きなもの置いてるところ、来る途中にあったっけ」
「なんでもいいよ、僕は」
「じゃあアイスクリームが食べたいな」
「アイスクリーム?」
 聞き返すと、母は小学生みたいな笑顔を浮かべた。しょうがないなあと舌打ちをして、来た道を思い返してみる。
「来る途中にあったよ、看板。反対車線側に」
「あっそう、じゃあ戻ろうか」
 Uターンして五分ほど車を走らせると、彼女の言うアイスクリーム屋の看板が見えてきた。
 中に入ると女性が二人、奥の対面式テーブルに座っている。通路側にいた女性が僕たちの姿を見て、あっ、と小さな声を上げた。
「もしかして、昨日。お蕎麦屋さんにいませんでしたか?」
 その問いに、母が僕よりも先に砕けた調子で答えた。
「いましたよ。もしかして、そこの施設に行かれるんですか?」
 壁際にいたニット帽をかぶっている痩せた女性が、にっこり頷く。“そこの施設”がなにを意味するのか、即座に理解したらしい。
 彼女たちにどうやって来たのかと尋ねてみると、電車でここまで来たと答えた。言われた時に駅からめざす場所への道のりを、ぱっと考えた。女性の足での徒歩は、かなり長くてきついだろう。まして一人は病人なのだ。
「良かったら、車に乗って行ってください」
 彼女たちが拒む理由はなかった。心細くて当然のところ、同病相憐れむじゃないけどガス抜きの存在は誰だって欲しいに決まってる。
 結局のところ入所手続きも四人で賑やかしく終えてしまっている。これからの母を看てもらう施設の職員は皆が優しく丁寧な人ばかりなことに安堵した。検査も手続きもまとめて、さっき乗せてきた姉妹よりもこちらの方が先に終わったみたいだ。
 母は暖かい午後の陽射しの差し込んでくる玄関フロアで、待っていた僕をまぶしそうに見上げる。
「ありがとうね」
「うん……」
「外食ばかりしてたらだめだよ。おかあさんがいなくても、たまには簡単な料理くらいは」
 本音では最後まで聞きたくない。つらかった。でも踏みとどまって笑顔を見せてやりたかった。できることなら、なんでも。
「わかってる。母さんの方こそ、風邪引かないように」
 ふっ、と母が頬を緩める。
「息子に心配されるようじゃ、母親も仕舞いだね」
 思わず口答えをしていた。
「それだけ憎まれ口が叩けるようなら、長生きすると思うよ」
「そうだねえ」
 ころころと笑う顔の母の表情は、幼い頃にみた笑顔と同じだったような気がした。
 名残り惜しかったが、帰らなければならない。この施設を一歩離れれば、僕には僕の生活があるのだ。一瞬うつむき、唇を固く結んでから母に言った。
「週末には来るからね」
 母が涙をいっぱいに溜めた目で頷く。それから無理矢理に笑顔を作って、僕を追い払うように手を振った。
 追い払われた僕は車のドアを閉めてから、エンジンもかけずにしばらく泣いていた。ぐずぐずと鼻をすすり上げた時だ。
 こつこつとフロントガラスを叩いている人がいたことに気がついた。
「あ、さっきの」
 お姉さんの入所手続きが終わったらしい。
 中指で涙を拭った僕は、するすると運転席側の窓を開ける。
「お姉さんの方も、手続き終わったんですか」
「ええ」
 改めて見ると可愛らしい顔をしている人だな、と思う。まあ最初に見かけたのは蕎麦屋だし、次はアイスクリーム屋だ。そんなとこでじろじろ眺めているような気持ちの余裕もなかった。
 利発そうな富士額に形の整った眉、大きな瞳の彼女が横に回ってきた。ためらいながら僕に話しかけてくる。
「すみません、これからどこか行かれますか?」
「いえ、僕なら家に帰るだけです」
「よかったら送っていただけませんか? なんだか……気が抜けちゃって、ちゃんと帰れる気がしないんです」
「わかりますよ、少し待っててください」
 助手席側のドアを開けられるようにすると、彼女は深々とお辞儀をしてから乗り込んできた。
 ばたん、とドアを閉めてから。彼女はまっすぐに僕の目を見て、ルームミラーを指差す。
「私には、あなたの方が危なっかしく見えるんです」
 不意に胸を突かれたような気がして、ルームミラーで自分の顔を確かめてみた。少し頬が削げてはいるけれども、あとはどこがどう違うのかわからない。
「昨日、お蕎麦屋さんでお見かけした時は目の下にクマなんか作ってませんでした。おそらくは、眠れなかったんだだろうと思ったんです」
 思わず苦笑してしまう。
「よく見てますね、人のこと」
「ええ」
 彼女は花が咲いたように笑った。ずっと、ずっと、砂漠のように乾いていた心の中に突然、花が咲いたように。
「行きますか」
「ええ」
 エンジンをかけて僕は来た道を戻る。急がなくてもいいのかもしれない。なんて彼女を呼べばいいのだろう。もしかしたら先々にも付き合いができるかもしれない。
 いろいろ考えていた時、助手席の方から声がした。
「あ、あのう。木村さんって仰るんですよね、お名前」
「僕ですか? そう、そうです。もしかして看護師さんに聞いたの?」
「はい」
「あなた方、姉妹(きょうだい)のお名前は」
「青山と言います。私の名前は弥生。姉の名前は櫻」
「へえ、櫻か。今からの季節の名前だ。僕は優一って言います」
 僕らは他愛ない会話を交わしながら時間を過ごした。奇しくも櫻さんと母の病気の部位は同じだった。青山姉妹は四国地方の海の側で育ったと聞いた。僕と違ってご両親は健在らしい。
 又、弥生さんは僕と同じ市内に住んでいるということも知った。
「母もその辺りで生まれたみたいですよ」
「木村さんのお母さま? あの明るい感じの方と同郷だったんですね」
「明るいかどうかは。櫻さんも強いな、と思いましたよ」
「あはは。わがままなだけですよ、姉は。それにしても不思議ですね、案外に世間って狭いですねえ」
「そうかもしれませんね」
 しばらくして弥生さんが黙り込んだように思えた。あれっ、と思って見ると瞼を閉じて寝ている。
「疲れちゃうよなあ……わかるよ、なんとなく」
 しかし助手席の人間が寝ていると、運転している人間まで眠たくなってしまう。気がつけば車の窓から夕日が射し込んでいる時間帯だ。
 それにしても弥生さんは目を覚ます気配がない。彼女の寝顔のまつ毛は長く、口紅が落ちた唇は小さい。ここで起こすのも申し訳ないような気がしてきた。
「ま、このまま送って行きますか」
 こちらにも疲れて眠っている女性を起こすほどの理由があるわけではない。彼女の自宅周辺に近づいたら起こしてあげたらいいだけの話だ。
 いつしかフロントガラスの向こうに金星が見えてきた。帰り道はやけに信号にひっかかる。何十回目かの信号待ちをしている時に、弥生さんの肩をつついてみた。
「弥生さん、もうすぐ着きますよ」
「あっ? あ……ありがとうございます。すみません、ついつい寝ちゃって……」
 慌てた様子の彼女を見ていると、頬が緩んだ。
「いいですよ、疲れる理由はわかりますから」
「なんだか恥ずかしい」
 弥生さんは照れ臭そうに笑いながら言った。
「実はね、さっき施設を出る前に優一さんのお母さまと話をしたんです。姉と同じ部屋になったんですけれども。その時、優一さんの話が出て」
「母さんが?」
「ええ。お話を伺ったら私は優一さんよりも年が二つも上なのに、全然しっかりしてないなあって思っちゃって」
「へえ、同じくらいかと思っていたのに。あ、もうすぐ弥生さんの家に着きますよ」
 その時、確かに彼女の了解した言葉を聞いた。感謝の五文字も確かに聞いた。
 だが、彼女の住居がある地番を表す電柱のプレート文字を見た時に。
 僕の唇からは思いがけない言葉が出ていた。
「や、弥生さんさえよければ」
「はい?」
「今夜だけでいいんです。僕と一緒にいていただけませんか」
「えっ……?」
「今夜、今夜だけでいいんです。お願いします。寂しいんです、こんなこと今まで誰にも言えなかった。もちろん母にも言えるわけがない。僕にはもう父はいない。これから更に母までいなくなってしまう。だ、誰かに。誰かにそばにいて欲しいと願った、だけど誰にもこんな。こ、こんな」
 いつのまにか下を向き、声を詰まらせた僕の肩に弥生さんは手を伸ばし、抱きしめてくれた。そして、黙って頷いた気配を感じる。
 彼女は僕を部屋へと招き入れた。
 お互いになにも言わぬまま唇を寄せて重ね合う、たったそれだけのことが果てしなくあたたかい。
「今夜だけでいい……」
 唇を離してため息混じりに言うと、弥生さんはかぶりを振る。
「私も、姉がいなくなったらと思うと目まいがします。ずっと一緒にいた人が、急にいなくなるなんて想像ができないんです。優一さんだけじゃありません」
「弱い人間だと軽蔑しないんですか」
「しません」
 彼女は僕を見上げ、ふたたび口づけをしてくる。抱き返した体は細くて、震えていた。お互いに足元をすくわれそうな不安な夜が、お互いのぬくもりで癒されようとしている。たとえ、このひとときだけでも。
 柔らかくあたたかい素肌に畏れをいだきながら、弥生の全身のすみずみまで唇を這わせる。そのたびに彼女の体は跳ねて僕を頼りなく求めて探す。手指を絡めながら一気に入った。
 明らかに愛撫だけでこぼれる鳴き声とは違う、その甘い響きを舌の全部で絡めとりながら何度も何度も彼女の体に甘え続ける。
 ――ひとりじゃないよ。きっと。
 弥生の途切れ途切れの声が僕の全身を慰める。
 いつまでもこの瞬間が続けばいいと願いながら、彼女に甘え続けた。ひとりじゃないよと言われるたびに孤独ではなくなっていくような気がした。これも愛のかたちなのか、そうであったらいいのに。
 そうであってくれたらいいのに。
 互いに名前しか知らない間柄で、ひっそりとはじまったぬくもりが週末ごとに続けばいい。
 僕はそう思っていた。弥生もまた、そうだろうと勝手に考えていた。

 翌週末は仕事の都合がつかず、母の見舞いに行けなかった。
 やりくりをつけた火曜日の午後、病室を覗くと母が沢山の折鶴を折っている最中だった。櫻さんの寝ているはずのベッドが空になっている。ぎょっとしている僕に母が言った。
「青山さんね、おととい引き払ったんだよ。ご両親が来てね、妹さんも一緒に帰ろうって」
「弥生も?」
「あんたに預かってるよ、手紙」
 母の白く痩せた手が、一通の手紙をこちらに差し出す。受け取る僕の手が震えた。


 ――優一さん
 急なことですが郷里に帰ることになりました。
 先週の土曜日、姉と一緒に病院に行った時に私も検査を受けていたんです。
 はじめは「姉の検診のついでだから、いいか」と思っていました。
 あの日は雪が降っていましたね。
 検査の後、あなたとお母さまに会ったことを不思議に思います。
 昨日、結果を聞いた時に陽性だと言われました。
 姉と同じ病に罹った自分を思うと、涙が溢れました。
 初期なので、なんとかなりそうな気はしますが
 姉と二人で実家に帰り、治療をしたいと思っています。
 検査の結果を聞いてから今日までの間
 優一さんの名前しか聞いていなかったことを後悔していないと言えば嘘になります。
 だけど、今以上にあなたが苦しむことになるなら
 黙って東京を離れた方がいいのかもしれないと思い始めている自分もいます。
 とても迷いながら、こうして手紙を書いている弱い私を許してください。

 あなたを愛しています。
 


 最後の一行を読み終えた僕は呆然としながら母を見た。じっと見つめ返してくる彼女の穏やかな声が、がらんとした病室に静かに響く。
「女ってね、本当に惚れた男の邪魔にはなりたくないもんなんだよ」




                                                                     (了)

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